これは、ニューカレドニア→オーストラリアBackpackerの旅からの続編です
ダーウィンから2時間半のフライトで念願のバリに降り立った。ココナッツ・ツリーや人々の浅黒さは思わず、
サモアを思い出す。空港内は線香のような匂い。オーストラリアから来るとまったく雰囲気が違う。
Custom Check では初めてBackpackの中身まで探られ、そのCustomerは写真を見つけるとそれを見だした
所で終了。
さっそく、案内所に行くと目当てのKuta Beachのホテル・リストで9US$を見つけ「予約したい」と言うとDepositに
5US$必要だと言う。とりあえず銀行で100US$をRp(ルピア)に交換するとぶ厚い札束になる。5,000Rpで
タクシーでホテルまで行ってもらう。(あとで分かったことであるが割高なものと解る)9US$でシャワー・トイレ付
一応扇風機まで付いている。さっそくビーチ中心街を見回り「アサヒビール」を発見、思わず買ってしまう。
晴れていたこともあり、Sunset Beachのきれいな事、一方通行でバイクの通行量がメチャメチャ多い宿の近くで
夕食後、ホテルのレセプションのお姉ちゃんとBahasa Indonesia と日本語を教えあったりして就寝。
1989年
2月4日(土)雨〜クタ・ビーチ
イヤ〜、良く寝た12時間ぐらい。雨は降っていたけれど、せっかくダイビング免許を取ったので潜りたい。
少々クタ中心街を歩き、高かったが75US$でNusa Duaへのダイビングを予約。まァここはサモアより英語は
出来ないが日本語で不自由しない。いろいろツアー・オフィスなど聞き歩き、そのうちビーチに出ると「マリワナ
はいならいか?」「いらない。」「女はどうだ。」「ン〜見るだけ。」等々。夜は夜でインドネシア語のお勉強、サモ
ア語に似ているな〜と関心する。
2月5日(日)晴れ〜クタ→べヌア→クタ
起床後、9時までまたまたインドネシア語の勉強、そしてダイビング・ツアーへ。朝10Kmマラソンがあったそうで
一着メキシコ人で四着が日本人だそうな。半島の裏側へ午前、午後の各2回ダイブ規模はグレート・バリア・
リーフだがきれいさ(透明度)はここのほうがいい。相棒(Buddy)いわく時々サメやマンタ・エイ、海亀も見れると
の事。そして"Buruna Beach Inn"(私が泊まっているレギャンに近いホテル)に戻り、再びインドネシア語の
お勉強後、自転車を借り(2,000Rp)庶民食堂でナシ・チャンプルーの夕食後、ホテル店員とビーチへデート。
夜、ナイト・クラブへ行くと店員が「Wanita Jepangが居るから話せ」と言う。彼女は2週間も居ていろいろ聞くと
宿は5千〜1万Rpであるらしく、値切りは30%まで効くとバリ通の日本女性であった。(その私がその後、イン
ドネシアに1年半滞在する通になるとはこの時は思ってもいなかった)
2月6日(月)晴れ〜クタ
6時半に起床後、8時過ぎに自転車でGaruda Indonesia Officeに航空機のreconfirm後、地図を探すもフリー
のものは無く、5,000Rpでバリ島の地図を買う。そして自転車で村めぐり民家にこじんまりしたコ汚い食堂が
あり、そこで700Rpの昼食。地域差でかなり食事の値も違う。帰り際シャツを一枚買いホテルに戻った後、
ビーチでボディーサーフィンを少々楽しみ、ジャカルタから職を探しに来ていた22歳の青年と話しをするが、彼は
帰りたくても金がなく、職も無く、1日食べずに過ごす事も多いと、同情はするが付き合ってられないのでホテル
に戻り、いつものように従業員とインドネシア語のお喋り。夕食のついでに自転車を返し、海岸でミルク・シェイク
を飲みながらサンセットを眺めるのである。従業員のKatutとWayanと会話後、ナイト・クラブへ例のアラック(Arak)
を飲み、例のおっチャンを待つが来ない。22時就寝。
2月7日(火)晴れのち曇〜バリ島(クタ)→ジャカルタ
6時過ぎ起床後、オーストラリアの友達達にポスト・カードを書き、荷物をまとめレセプションに。写真を撮ったり
短い付き合いだったが従業員とお別れ。そして空港へ。驚いた事にオン・タイムで飛行機は飛び立つのである。
そして、一路ジャカルタへ→次ページへ