バンドゥン(Bandung)での一光景

1.サボイ・ホマンホテル

2.バンドゥン教育大学

3.グドゥング・サテ

4.地質博物館

5.ホスト・ファミリーと食事

6.ホスト・ファミリー玄関にて

7.ファミリーの親族宅にて

8.パジャジャラン大学の光景

9.日本語学科本部

10.インドネシア語研修修了式

1.市内中心街、AlunーAlunの近くにあるサボイ・ホマン(Savoy Homann)ホテル。1955年にアジア・
  アフリカ会議(バンドゥン会議)がここの斜め向かいの現在は博物館となっている所で開かれた時
  は、このホテルが各国首脳の宿泊先とになった滞在当事もきれいなホテルであった。
2.バンドゥン教育大学(IKIP Bandung)、日本での訓練所講師がここの大学卒業生で、1933年にオラ
  ダ人富豪によって建てられた由緒ある建物。日本軍政化の本部になる前はインドネシア独立運動
  の本部であった。
  大学の名称も近年「インドネシア教育大学」に変更されたようである。
3.グドゥング・サテ(Gedung Sate)の名称は屋根が「串焼き」状になっている事から名づけられたらしい
  西ジャワ州政府庁舎。これもオランダ植民地時代に建てられた。
4.地質博物館(Museum Geologi)にあった、「ジャワ原人」の模型。1929年に建てられた名所の一つ。
  他に化石類、石油、鉱物資源等の資料が展示してある。
5.1990年当事にバンドゥン北郊外に建てられたシェラトン・バンドゥンでのホスト・ファミリーとの
  ディナー。Ibu Yaniは元有名歌手でBapakはよく知らないが仕事であまり居なかった。
  2台の車とパラボラアンテナ付きの住宅で2人のお手伝い(pembantu)を雇っている「金持ち」(Orang
  kaya)の家にあたるだろうが、約1ヶ月自由に過ごさせてもらった。「また、いつでも訪ねて来ても
  いいよ」と言われたが、その後バンドゥンに訪問する機会が無かった。
6.ホスト・ファミリーの4兄弟の紅一点の娘(Dinda)とそのお友達。玄関のソファーでパチリ。
7.ホスト・ファミリーのお母さん、Ibu Yaniの妹さんの娘(Wina)と。中学3年生で学年かクラスのトップ
  の成績で、当初私を気に入ってくれ「もう少し大きくなったらpacaranしてもいい」と言ってくれたが
  何でか知らないが、後に嫌われてしまったような・・・でもボーイッシュで可愛いスンダの娘だった。
8.パジャジャラン大学(Unpad)の文学部日本語学科は日本の援助ですでにバンドゥンからスメダン
  途中のジャティナゴール(Jatinangor)に移転されており、当事の学生に招待され小運動会。
  他の学部も10年後までには広大なここに移転が予定されていたが、どうなっていることやら。
9.ジャティナゴールにあるパジャジャラン大学日本語研究センター。日本の援助は建物だけは立派に
  見える。
10.バンドゥンのパジャジャラン大学(Universitas Padjadjaran:Unpad)文学部(Fakultas Sastra)本部で
  先生を含め講習修了式。よく調べると、インドネシアの大学で日本語学科が一番早く設置された
  様であるが、インドネシア語学の権威Yus Badudu先生に教えてもらったのが収穫であった。